今年3月で当店リニューアルオープン10周年を迎えるにあたって、10年前の出来事を前編/後編に分けて告白したいと思います。
みなさんの人生で、心に残っている音楽一曲をあげるとしたら何かありますか?!好きなアーティストの一曲・心に響く歌詞の一曲・恋人との思い出の一曲・・・音楽って、その時代を思い出させてくれる、振り返られる素晴らしいものですよね。僕が今迄の人生で一曲をあげるなら「長い間・歌手Kiroro」です。
僕の父母が一代で立ち上げたタイヤ販売店「ツジガイトタイヤ」を物心ついた頃から見てきていました。ですが、僕が小学校6年生の頃から、お隣に開店された「喫茶アン・ドゥ・トヮ」に縁があってアルバイトに行き始めました。中学校時代/高校時代も帰宅後ほぼ毎日喫茶店でアルバイトをしていました。父母は昔から「家業を継いでもらわなくても、自分のやりたい道に進めばいい」と常日頃言ってくれていましたので、将来は料理人に!なんて夢も描いていました。けど、高校3年生の進路を決める時に僕は「やっぱりクルマが好きだし、家業のタイヤ販売と、もっと職種を広げていきたい」と考え、自動車整備の専門学校「ホンダ学園」に進学する事を決めました。
専門学校で自動車の基礎を勉強して、2級整備資格も取得し、ホンダDラーに就職しました。家業に就く前に現場で整備のノウハウを身につけようと思いましたが、ホンダDラーに就職して一年経たない間にタイヤメーカーからリニューアル(後のタイヤガーデン看板)の話を持ちかけられました。気づかれた方は少ないかもしれませんが、僕はこれまで家業のタイヤ店の手伝いをした事ありませんでした。タイヤを転がすぐらいは手伝った事ありましたが、タイヤの入れ替え他作業を経験した事なかったんです。僕は慌てて自動車整備よりも、タイヤ業界への修行に切り替えました。
自分で大阪各地のタイヤSHOPを周り、メーカーさんに販売実績のあるお店もアドバイス頂き、枚方市にあるタイヤSHOPさんにお世話になる事になりました。僕は家業の話を封印して密かに現場経験をと考えていましたが、就職初日には、父母と和歌山県のタイヤメーカー部長さん・大阪府のタイヤメーカー部長さん(後の恩師Yさん)・担当者さんとで、お世話になるタイヤSHOPさんへ挨拶に行く大層な事になっていました。
こんな大層な挨拶を受けて、僕を引き受けて頂く事になったタイヤSHOP専務さんは、プレッシャーを感じたそうですが、当の中心人物の僕は・・・。
初日「じゃぁ、このタイヤ入れ替えしておいて」と仕事を与えてもらっても、ぎこちない手さばきに
「オマエ、タイヤ屋の息子やろ?タイヤ入れ替え作業できないのか?」と呆れられました。
その後も作業を与えていただけましたが、出来ない作業と失敗の連発。とうとう専務に
「もうオマエは、作業するな。タイヤ1つ触るな。毎日掃除でもしとけ」
と叱られました。僕は当然の事だと受け止めました。それから毎日、掃除や片付けの日々でした。ピット作業の先輩達は僕に気を使ってくれて、こっそり作業を教えてくれたり、タイヤ入れ替えの練習をさせてくれましたが、専務に見つかると怒られました。更に、昼御飯の後や作業の入っていない間に休憩室で先輩達と一緒に休憩をしていると
「オマエは作業もしていないのに、(みんなと)休憩するな」
と休憩する事も許されませんでした。何も出来ない自分が情けなくて情けなくて、静まり返ったワンルームマンションに帰ると毎晩のように泣いていました。専務のおっしゃる事はごもっともだと思ったので、何も出来ない自分に腹が立ちました。
休憩する事も許されず、開店から閉店まで掃除や雑用ばかりでしたが、ある先輩が
「休憩室で休んでいたら専務に怒られるから、ここ(ピットの一角)だったら店内から見えないから、僕らが休憩してる時はここで休んでなよ。専務の姿が見えたら、何かしてるふりして動きな」
と、店内に座っている専務の死角に入る場所を教えてくれました。そのピットの一角は、ピット内のBGM(FMラジオ)を流しているラジカセの側でした。
僕は掃除・片付けをしている時も、隠れて休憩をしている時もずっとラジオを聞いていました。この時、大ヒットしていた曲が「Kiroroの長い間」でした。ランキングで上位に入るから歌が流れ、リスナーからのリクエストが入るから歌が流れ、朝から晩まで毎日何度も何度も「Kiroroの長い間」が流れていました。
僕の心に残る一曲「Kiroroの長い間」は、僕がツライ修行時代に毎日聞いていた曲なんです。今もラジオのザワザワした音色で「Kiroroの長い間」を聞くと、当時の事を思い出して泣いてしまいます。。。
後編 「恩師との別れ」へ。
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